本年8月、世界の一流時計が一堂に課した国内最大級規模の「三越ワールドウォッチフェア」が開催されました。今回は特別イベントとして、独立時計師のカリ・ヴティライネン氏を招き、Chronos日本版編集長、広田雅将氏との特別対談を行いました。当日の対談の様子をご紹介いたします。
40歳で独立時計師へ。理想を追求する時計づくりへの挑戦
広田:ヴティライネンさんにまず伺いたかったのは、そもそもどうして時計師になろうと思ったんでしょう。スイスならまだしもフィンランドで時計師になろうというのは珍しいんじゃないですか。
ヴティライネン:子どもの頃からメカに非常に興味がありました。父の知り合いに時計の技術者がいたので、そのアトリエが遊び場であり、機械や工具を見て育ったんです。将来こういった手先を使う時計関係の仕事がしたいと10歳くらいから憧れていました。フィンランドの時計専門学校で学んだ後、時計専門店で1年間働き、より本格的な時計を学ぶため、1988年に時計の聖地であるスイスにあるWOSTEPという時計学校に入ったわけです。
広田:興味深いのは、独立時計師になったのは40歳の頃ですが、年齢的に不安はなかったんですか。
ヴティライネン:独立するには、資金や立ち上げ後も自分がやっていけるかどうかという不安はもちろんありました。でもたとえ下請けでもやっていける自信はありましたし、ちょうどタイミングがあった時期だったんですね。
広田:独立後は多くの傑出した時計を作られています。まずVingt-8(ヴァントゥイット)ですが、現行の3針時計でこれだけ仕上げのいいムーブメントは多分ありません。何故こんなに仕上げにこだわっているのですか。
ヴティライネン:ハイエンドの高級時計について考えた時、私にとっては見た瞬間にどれだけ美しいか、ときめくかということが一番大事なところなんです。工房では生産本数も限られていますが、それは抑える目的ではなく、ほとんどがパーツ一つひとつ、歯車から地板、見えない部分まで手作業で作り、仕上げをしているので、大量生産ができませんし、それ以上作る気がないんです。正直いうと、仕上げというのは時計の機能とはあまり関係ないのですが、見えない部分も美しく、人間が手で仕上げてこそ本格的な高級時計ではないかと自分は思います。
広田:ヴティライネンさんのムーブメントにはいくつか顕著な特徴がありますね。ひとつは角の面取りです。アングラージュといいますが、ここが完全に手作業で丸くなり、しかも幅が非常に広い。
ヴティライネン:じつは面取りはかなり手間がかかるんです。レイアウト全体の輪郭作りから始め、まず入り角のついたラインを砥石で削り、目の異なる何種類かの耐水ペーパーを使い分けます。そのままでは面がざらついて筋目が入っていますので、研磨をしていきます。これも伝統的なやり方で、ウッドスティックに研磨剤を付けて、手作業で磨きをかけていきます。また角穴車の巻き上げに使う歯車の刃先や歯型も一つひとつ面取りし、表面にはサーキュラーグレインという仕上げを施しています。
広田:渦巻き模様みたいなところですね。
見えない部分まで美しく。昔の時計づくりの手法を貫く
ヴティライネン:その中心にネジが留まっていて、少し窪んだ段がついています。この部分に装飾模様を入れるのは、じつはとても難しい作業です。
広田:面取りにしても、下地処理をしないというのは昔の時計の作り方そのままですね。それをいまだに残しているのがすごい。ヴティライネンさんの時計は穴石の形が凄くいいんですよ。マニアックすぎて誰も共感してくれないんですけど(笑)。少しドーナツ状の形になっていて、一般的な穴石がフラットで真ん中の部分だけが窪んでいるのに対し、立体的になったミ・グラスというタイプの穴石です。
ヴティライネン:穴石は歯車の軸を受ける部分であり、回転する軸との摩擦を軽減するために受け石との間に潤滑油が入っています。広田さんがおっしゃる通り、通常はフラットな穴石を使いますが、見た目からしてもドーム型のほうが美しい。そして裏側もドーム型なので受け石との空間に潤滑油をより多く保つことができます。そうした見た目と機能面の2つのメリットがあります。
広田:こんな穴石って今でも手に入るんですか。
ヴティライネン:スイスには専門メーカーが何社かあるのですが、この形を今でも量産しているところはありません。昔の在庫から調達するにしてもクオリティの問題があります。私たちが採用する、ダブルガンギ車を使ったダイレクトインパルス脱進機は穴石の形状が特徴で、その分、脱進機に摩擦がかかりません。しかしこの穴石を求めて、日本も含めて世界中のメーカーに問い合わせたんですが、どこも小ロットで作ってくれるところがなかったので、自分たちでオールドエボーシュから脱進機の石だけ取り除いて、一個一個合わせて削り磨いています。
広田:そこまでしているんですか。その脱進機について聞きたいと思います。標準的なスイスレバー式ではなく、ブレゲが開発したナチュラル脱進機の改良版であるダイレクトインパルス脱進機を採用しています。これはスイスレバー脱進機に比べて、理論上注油しなくて済み、またデテント脱進機と違って、振り角が高いので携帯時計にもできるメリットがあるわけです。どうしてこれを使おうと思ったんですか。
ヴティライネン:ダイレクトインパルス脱進機にした理由のひとつは、通常のスイス脱進機は摩擦が多いため、その分パワーロスが多くあります。その点インパルスは衝撃面が摩擦が少ない分、パワーリザーブを30〜40%伸ばすことが可能です。しかしそれには爪石にも精密さが求められ、当たる面はどの角度が最も効率的に衝撃を緩和できるかを計算し、爪石も一つひとつ自社で作っています。こうしたパーツもそうですし、特殊なダブルガンギ車も私たちはすべて自社で作ることができます。それも理由のひとつでしょう。そしてデザイン的にも特徴があるので、それは他のサプライヤーに頼らず、自分たちで自社の製造ができるということの証明にもなるのです。
広田:ヴティライネンさんはスイスの時計学校で教鞭をとられたほどの理論派なので、脱進機の設計ができるのは当然のことですね。
ヴティライネン:でも理論上と実際に機械を動かすのは別の次元です。たとえ知識や情報はあっても、それを実際に設計して稼働させるまではすごく努力が必要でした。そして、分析する能力も必要になります。
構成・文 柴田充
写真 奥山栄一
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広田 雅将
Masayuki Hirota
時計ジャーナリスト・時計専門誌『Chronos日本版』編集長
1974年大阪府生まれ。会社員を経て、時計専門誌クロノス日本版編集長。国内外の時計賞で審査員を務める。監修に『100万円以上の腕時計を買う男ってバカなの?』『続・100万円以上の腕時計を買う男ってバカなの?』(東京カレンダー刊)が、共著に『ジャパン・メイド トゥールビヨン』(日刊工業新聞刊)『アイコニックピースの肖像 名機30』などがある。時計界では“博士”の愛称で親しまれており、時計に関する知識は業界でもトップクラス。英国時計学会会員。
カリ・ヴティライネン
Kari Voutilainen
1962年、フィンランド生まれ、タピオラの時計技術学校やスイスWOSTEP(the Watchmakers of Switzerland Training and Educational Program)在学中に時計技術の基礎を修得後、1989年からアンティーク修復や複雑機械式時計の製作など、スイス時計製造に携わる。2002年、スイスの街、ヴァル・ド・トラヴェール地方、モーチエにアトリエを構え、2006年に独立時計師アカデミー(AHCI)に入会。2008年からムーヴメントキャリバーの本格的な自主開発を始め、ムーブメントの設計やパーツ製作から、装飾、仕上げ、組み立てまですべての工程をアトリエで行ない、希少なマスターピースを精力的に発表。2014年に文字盤メーカー(Comblémine)、2018年にケースメーカーを傘下に運営し、文字盤やケース製造に一段と磨きをかける。キャリバーの開発にも精力的に取り組んでいる。2007年、オブセルヴァトワール、2013年にV-8R、2015年にGMRがジュネーブ・ウォッチメイキング・グランプリ メンズウォッチ賞を受賞。2014年、2017年に漆工棟梁「雲龍庵」と共同製作したアートピース HISUI(翡翠)、Aki-no-Kure(秋暮)がアーティスティック・クラフト・ウォッチ賞を受賞。2014年、時計開発の功績を称えられ、ラ・ショー・ド・フォン国際時計博物館でガイア賞を授与。